昭和50年04月27日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 金光様の御信心は、本当に親に孝行したい。親の言う事を聞くという様な精神がなからなければ、金光様の御信心は本当にはわからない。金光様の御信心の、おかげもわからない。心もわからない。親の心。親孝行というのは、親の心が分かると言う事。そして親の心に添うて行くと言う事が親孝行です。如何に親孝行の様であっても、肝心の所を背く様では親孝行にはならない。
 却って親に気を揉ませる様なもの。ですから私は初心の方達、初めて参った方達に良く言うのですけれども、まぁ色々お話をしてもね、初めから信心の道が分かるという事はない。またそれを話して聞かせても、また分からない。それで親孝行の心を持ちなさい。誰でも親不孝をしようと言った様な者はおりんません。けれども特別に本当に親に喜んでもらおう、本当に親孝行させて貰いとうてたまらんという様な人は少ない。どうでも一つ親を泣かせてやろう、と言った様な子供は先ずおりません。
 けれども親に本当に喜んで貰おう、本気で親孝行さして貰おう、という者もまた少ないです。だからお道の信心をさして頂く者は、先ずそこに気付かせて貰うて、その少ない方の部類に入らなければならない。所謂親孝行の精神を持って、お話を頂き親孝行の心を持って信心をさせて頂くと、信心の有難さというか、信心の深さというか、ぐいぐい分かって行くのです。子供を持って合点せよとこう言われる。この御理解にありますように、親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。
 言う事を聞かぬ子は、親でも仕方があるまいがと。これは神様とてもどうにも出来なさらんのです。ただおかげは頂きたい、本当のおかげが頂きたいと、どんなに願いましてもです。言う事を聞かん子は、親でも仕方があるまいが。天地の親神様でもどんなにお力を持ってござる神様でも、氏子が言う事を聞かなければ仕方がないのであります。それは言う事を聞かせたい。そして本当の幸せになりたい。
 こりゃそうですけれども親が子供の上にです。どうでも子供が不幸になるようにと思う親は、一人もまたないように、幸せになるように、よりよい幸せになって貰いたいという願いが、子供に色々な小言になったり、言う事を聞かなかったら、場合によっては折檻もしたりするのです。ですから親の言うことを聞かぬ、いくら云うても言う事を聞かぬ。そりゃ親でも仕方がないと言う様に、天地の親神様でも、言う事を聞かぬ子は仕方がない。疑うて聞かぬ者は是非に及ばずと。
 親に愈々淋しい思いをさせるわけです。それでもまた時を待っておかげを受けるがよしと、まあ後から祈念をしておって下さる様な感じが致します。どうぞ分かってくれどうぞ親の思いが分かってくれと言うわけですね。親の思いが分からして貰う、そして親の思いに添うて行く。そこから親子の真実の助かりがあるように、神様の思いが分かり神様の願いが分かりその思いに添い、願いに応えて行くという生き方を身に着けて行くと言う事がお道の信心です。
 そこに神も助かり氏子も立ち行く道が開かれて来るのです。金光様の御信心は、神様だけが助かってござる。私共がただおかげを頂きさえすれば良いと言うのではいけない。親も助かる子供も助かる、神様も助かって下さりゃ氏子も助かって行ける道。そこから愈々あいよかけよの道が、限りなく開けて来るのです。根本は親に孝行する言うことであります。所謂親孝行の精神であります。
 私共も信心を分からせて貰い、親孝行をしたいと発願致します。ためには先ず親の心が分からなければ親孝行は出来ません。親がこうして貰いたいと、思うておる事が分かる時にこうするのです。所が親がこうして貰いたいと言う時に、あゝするならばそれが却って、歯痒い思いをさせる様なもの。だから神様は、親の心を分かるために教へを拝聴するのです。御教へと言うものは全て親の心であります
 そこで今日はこの教えに取り組ませて頂こうという風に取り組まして頂くと言う事は、愈々親の心を分かって、親の心に添おうとする精神です。だからおかげを受けるのです。親の言う事を聞こうとせずに、おかげだけを願うと言う事では、それはおかげは頂いても親も助かり子も助かり。神も助かり氏子も立ち行くと言う事にはなって参りません。この方が天地金乃神よりおかげを受けている事を話にしておる。金光大神様が天地金乃神様からお頂きになる、神様のお心を私共に伝えて下さるんです。
 此処では私が神様から、金光大神様から頂くみ教えを、皆さんに聞いてもらうのです。ですから、まぁ何と申しますか、愈々親の心が分かる手始めとでも申しましょうか、親先生任せという事が、ここでは言われる訳です。親先生が右といわれりゃ右、親先生が、左とおっしゃりゃ左を取らせて頂くという生き方。そこから私はおかげが受けられるじゃなくて、そこから信心が分からせて貰うという行き方に進んで行かなければいけません。親先生任せになって、おかげを受けると言う事でなくて。
 親先生任せになって行きよる内に、親の心がいよいよわかる。言うならば信心が愈々進んで行くと言うおかげでないと、それは余りに幼稚な事になります。只親先生任せになってさえおきゃよかがのと、この辺の言葉で申します。それは大概が親先生任せになっときゃおかげになると言うことの意味に言うようです。親先生任せになって行く事によって、親の心が分かる。神様の思いが悟れる。
 そういう行き方に進んで行かにゃいけません。天地の親神様が、氏子信心しておかげを受けてくれよと言われる信心とは、そういう信心だと思います。親が子供にかける願いというものも、段々高度なものになって来ます。子供の時に思う親の心と、成長してからの親が子供にかける思いと言うのが違って来る様なものです。だからいつも同じでは有りません。だから時々教えに矛盾した様なものを感じる事があります。
 いうならば十の子供に云うて聞かせる時、二十歳の子供に云うて聞かせる時、それはやはり違うのです。この辺の所も段々分かって行かなきゃなりません。だから結局誰さんの真似ではいけんことになります。信心はどこまでも銘々のもの、そして自分の信心がこれは、神様が喜んで下さる時にはわかるんです。はぁ神様の願いに応えておるなという時にはわかるんです。
 自分の心の中に伝わって来るものがあるです。それを例えば親の思いが分かっただけでも伝わって来るです。心の中に段々皆さんも体験が出来てこられると思うし、また体験をして行かれてもおると思うのですけれども。ふっと自分の心の中に、神様の心が分かって、その心に添わせて頂こうと、こう思うた途端に心の中に感動が湧いて来るというか、いうならば喜びが湧いて来るのです。
 だからそういう思いを、愈々育てて行くと言う事が信心です。間違いないです。心の中に喜びが湧いて来る。それが親先生任せになっとりゃおかげ頂くという様な、浅はかな信心で行った分では、そういう感動が湧いてきません。親先生任せにならせて頂くという事によって信心が分かる。それをフッと自分の心の中に感ずることがある。神様がその事を見通し聞き通しに聞いてござる証拠にです。
 はぁ親の思いが分ったかと言わんばかりに、感動喜びが頂けるものです。これは信心を段々進めて行かんと解らない所です。だからそういう感動をそのまま育てて行く。それを、いよいよ実行するという信心にならなければなりません。親でも言う事を聞かぬ子は仕方あるまいがと。親を淋しい思いをさせる様な事のない様な信心を、愈々身に着けて行きたいと思いますね。
   どうぞ。